代表的なクモ クモ目以下について主な科と代表的な種を紹介する。分類体系は古いものを踏襲している。 先物取引 クモ目 ハラフシグモ亜目 キムラグモ科 - キムラグモ クモ亜目 トタテグモ下目 トタテグモ科 - トタテグモ ジグモ科 - ジグモ オオツチグモ科 - タランチュラ クモ下目 ヤマシログモ科 - ユカタヤマシログモ エンマグモ科 - ミヤグモ ハグモ科 - ハグモ・カレハグモ ガケジグモ科 - クロガケジグモ ウズグモ科 - ウズグモ・オウギグモ・マネキグモ ユウレイグモ科 - ユウレイグモ・イエユウレイグモ・シモングモ ヒメグモ科 - セアカゴケグモ・ヒメグモ・イソウロウグモ サラグモ科 ヒラタグモ科 - ヒラタグモ コガネグモ科 - オニグモ・コガネグモ・ナゲナワグモ・トリノフンダマシ・ゴミグモ・スズミグモ・トゲグモ アシナガグモ科 - ジョロウグモ・アシナガグモ タナグモ科 - クサグモ キシダグモ科 - ハシリグモ コモリグモ科 - コモリグモ・タランチュラコモリグモ ミズグモ科 - ミズグモ ササグモ科 - ササグモ フクログモ科 - カバキコマチグモ アシダカグモ科 - アシダカグモ カニグモ科 ハエトリグモ科 - ハエトリグモ・アリグモ ホラヒメグモ科 - ホラヒメグモ マシラグモ科 - マシラグモ [編集] 関連項目 クモの網 バルーニング (動物) クモ学 タランチュラ [編集] 参考文献 ^ 小野展嗣 「2.鋏角亜門」 『節足動物の多様性と系統』 石川良輔編、岩槻邦男・馬渡峻輔監修、裳華房、2008年、122-167頁 宮下直『クモの生物学』,(2000),東京大学出版会 関口晃一、八木沼健夫,(1966),「真正蜘蛛類」(内田亨監修『動物系統分類学 7(中A)』,中山書店) 浅間茂・石井規雄・松本嘉幸 『改訂 校庭のクモ・ダニ・アブラムシ』 全国農村教育協会〈野外観察ハンドブック〉、2002年、ISBN 4-88137-084-7。 八木沼健夫『クモの話』,(1969).北隆館 [編集] 外部リンク ウィキスピーシーズにクモ目に関する情報があります。ウィキメディア・コモンズには、クモ目 に関連するカテゴリがあります。クモ目 ARANEAE(日本産生物種数調査) クモ目(虫ナビ) 日本蜘蛛学会 日本蜘蛛学会30回大会・見聞記(みるかし姫) [1] クモを食べる習俗(農林水産技術情報協会) [2] 昆虫料理を楽しむ 絡新婦(じょろうぐも)は、日本各地に伝わる妖怪の一種。美しい女の姿に化ける事が出来るとされている事から、「女郎蜘蛛」と表記される事も。 投資信託 [編集] 概要 江戸時代、美女の妖怪(絡新婦)が男を人気のない小屋へ誘い琵琶を弾き聞かせる。男が美女の姿とその琵琶の音にうっとりとし、油断している隙に蜘蛛の糸を出し巻きつけ、男を喰らうとされる。 絡新婦はもともとは蜘蛛で齢400歳をむかえると妖力がついて、人間の女に化けるとされている。その容姿は、見る者を魅了するほどの絶世の美女だとされている。『太平百物語』や『宿直草』などの江戸時代の書物にも絡新婦の名があり、女に化けて武士に結婚を迫ったり、子連れの女に化けるとある[1]。 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」では、火を吹く子蜘蛛達を操る蜘蛛女の姿で描かれている。 静岡県伊豆市の浄蓮の滝では、滝の主として絡新婦の伝説がある。ある男が滝壺のそばで休んでいると、無数の糸が脚に絡みついてきた。男がその糸を近くの木の切り株に結び付けてみると、株はメリメリと滝に引き込まれた。絡新婦が男を滝に引き込もうとしていたのである[1]。 以来、里の人々は絡新婦を恐れてその滝に近づかなかったが、よその土地から来た木こりが事情を知らずに木を刈っていたところ、誤って愛用の斧を滝壺に落としてしまった。木こりが斧を取り戻すために滝壺に潜ると、美しい女が現れて斧を返してくれ「ここで見たことを誰にも話してはいけません」と言った。木こりは以来、言いつけを守りながらも胸に何かがつかえたような日々を送り、あるときの宴の席で、酒の勢いで一部始終を話してしまった。胸のつかえがとれた安心感で木こりは眠りこけたが、そのまま二度と目を覚ますことはなかったという[2]。 絡新婦により滝に引きずり込まれそうになった人が切り株を身代りにするという伝説は各地にあるが、中でも仙台市の賢淵がよく知られる。ここの伝説では切り株が水中に引きずり込まれた後、どこからか「賢い、賢い」と声が聞こえたといい、賢淵の名はそれが由来とされる[1][3]。以来、賢淵では絡新婦が水難除けの神として信仰され、現在でも「妙法蜘蛛之霊」と刻まれた記念碑や鳥居がある[3]。 また前述の浄蓮の滝の木こりの伝承には、悲恋物語ともいうべき別説もある。それによれば木こりは滝壺で出会った女に恋をし、毎日のように滝に通うが、それにつれて体が衰弱していった。近隣の寺の和尚は「滝の主の絡新婦に取りつかれたのでは」と疑い、共に滝へ行って読経した。すると滝から木こりへと蜘蛛の糸が伸びたが、和尚が一喝すると糸は消えた。木こりは女の正体が絡新婦と知ってもなお諦めず、山の天狗に結婚の許しを得ようとしたが、天狗はそれを許さなかった。なおも木こりは諦めず、滝に向かって走った。すると彼は滝から伸びた蜘蛛の糸に絡め取られ、滝壺の中へと消えて行ったという[4]。 [編集] 脚注・出典 [ヘルプ] ^ a b c 村上健司 『妖怪事典』 毎日新聞社、2000年、190-191頁。 ^ 人文社編集部 『ものしりシリーズ 諸国怪談奇談集成 江戸諸国百物語 東日本編』 人文社、2005年、59頁。 ^ a b 賢淵 (JR東日本 えきねっと内) ^ 宮本幸枝 『大人が楽しむ地図帳 津々浦々「お化け」生息マップ - 雪女は東京出身? 九州の河童はちょいワル? -』 技術評論社、2005年、80頁。 [編集] 関連項目 女郎蜘蛛(クモ) 日本の妖怪一覧 絡新婦の理(じょろうぐものことわり) - 京極夏彦著 白蛇(しろへび)とは、白化現象を起こしたヘビである。その希少性により日本各地で縁起のいい動物として信仰の対象となっている。 FX 弁才天の使いとして富をもたらすものとして有名だが、水神としても有名である。これはその他多くの蛇神と共通するものでもある。諏訪神社の神使など、多くの神社・仏閣などで奉られている。 白蛇伝(はくじゃでん)は中国の説話。詳細は本項。 白蛇伝(はくじゃでん)は日本最初のカラー長編アニメ映画。詳細は本項。 目次 [非表示] 1 民話『白蛇伝』 2 アニメ映画『白蛇伝』 2.1 映画が作られるまで 2.1.1 発端から企画の始動まで 2.1.2 東映動画の誕生と動画スタジオの建設 2.1.3 フィルムボードとライブアクションの試み 2.2 その後の影響 2.3 スタッフ・出演者一覧 3 ミュージカル『白蛇伝 0White Lovers0』 3.1 キャスト 3.1.1 女性 3.1.2 男性 3.2 スタッフ 4 外部リンク [編集] 民話『白蛇伝』 頤和園の回廊に描かれた白蛇伝説白蛇伝(はくじゃでん)は中国の説話。かなり古くから小説や戯曲などの題材とされてきた。白蛇の化身である女性が中心人物で、人間の男性と恋に落ち夫婦となるが、正体が知られ退治されるという異類婚姻譚が物語の大きな枠組み。しかし翻案された作品には、恋愛の部分に重点が置かれハッピーエンドを迎えるものもある。 この説話を元に書かれた日本の文学作品には、上田秋成『雨月物語』中の『蛇性の淫(じゃせいのいん)』などがある。また、日本初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』は、この説話を題材としている。 なお、この伝説は、古代ギリシアのラミアと関係があるという指摘がなされている。 参考文献:『蛇女の伝説』南條竹則、平凡社新書059、2000年 ISBN 4582850596 [編集] アニメ映画『白蛇伝』 白蛇伝(はくじゃでん)は、中国の説話『白蛇伝』を題材にした、日本最初のカラー長編アニメ映画である。この映画が作られるまで、日本には長編アニメ映画制作のシステムがなかった。スタッフ達は、他国のアニメの研究からアニメーターの養成、アニメ用撮影機材の開発などまで着手しつつ、2年がかりで作りあげていった。 この映画の制作に携わったスタッフは、その後の日本アニメ界を牽引する役割を担っていった。また宮崎駿のように、この映画を観た経験がアニメ界に入るきっかけの一つとなった人物もいる。 日経225 演出は、それまで東宝教育映画部で短編アニメを製作していた藪下泰司。製作は東映動画。配給は東映。公開日は1958年10月22日。声の出演者は森繁久弥と宮城まり子。彼らの台詞を劇作家の矢代静一が執筆。他に、人物の動きをトレースしてアニメ化する手法「ライブアクション」のために、水木襄、松島トモ子や、当時東映に入社したばかりの佐久間良子らが起用されている。 [編集] 映画が作られるまで [編集] 発端から企画の始動まで 日本発のカラー長編アニメ『白蛇伝』が作られるきっかけとなった映画に、『白夫人の妖恋』(1956年、東宝)がある。池部良、山口淑子、八千草薫ら出演したこの実写映画は、中国の説話『白蛇伝』を題材にしていた。この映画は香港で興行的に大成功を収めた。これを受け、『白夫人の妖恋』をアニメ化する企画が、香港の映画界から東映に持ち込まれた。 これがきっかけとなり、東映社長・大川博(当時)は、香港の下請けとしてでなく、独自の本格的なアニメ映画をつくることを考え始めた。当時大きな興行収益を上げるアニメはディズニー映画のみだったが、日本においてアニメ映画製作の体勢を整えていけば、将来大きな産業になるのではないかという、鉄道省の役人から東急の専務、そして東映の社長へと叩き上げてきた大川の、経営者としての予測もあった。 2時間規模のカラーアニメ映画を目指し、東映の教育映画部が中心となって『白蛇伝』の企画がスタートした。この企画のために集められたスタッフには、赤川次郎の実父である教育映画部の赤川孝一、キャラクター原案と美術を担当する岡部一彦、NHK技研出身で美術担当の橋本潔、演出担当の藪下泰司などがいる。 とはいえこの当時の日本には、アニメを制作する会社は影絵動画を含めてもごく少なく、そのいずれもが僅かの社員を抱えるのみの小会社だった。例えば業界最大手だった日動映画ですら、社員20数名の社屋のない会社であり、高校の空き教室を間借りしアニメ製作をしているような状態だった。 また、それまでに作られた最大規模のアニメ映画は大戦中の国策映画『桃太郎 海の神兵』(1945年、松竹動画研究所 白黒)で、上映時間は74分だった。アニメーションの専門家と言える人材がいない状況で、2時間規模のカラーアニメをつくろうとするこの試みは、当時の常識から考えて極めて無謀とも言えた。 外為 東映は、動画会社の吸収、短編動画の制作、動画スタジオの建設、スタッフ養成など、数年がかりでアニメーション制作の体勢を整えつつ、その集大成として長編アニメ『白蛇伝』を完成させるという大がかりな計画を立てた。 1957年6月末、『白蛇伝』の制作が正式に記者発表された。